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2020/10/28

【門司港散策】有楽街 - 門司港に生まれ門司港で刺殺された伝説のヤクザの大親分・大長健一ゆかりの場所

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門司港が石炭積み出し港として栄え絶頂期を迎えてた大正時代末期1923年(大正12年)に大長健一は生まれました。父親は門司港の沖仲仕の小頭、母親は兄弟に博徒を持つ家庭に育ったこともあり、大長健一も子供の頃から番長をはるような荒々しい性格だったそうです。同い年で生涯の友となる宮崎斉蔵とは小学校の頃に決闘した間柄で、その後二人して数々の抗争事件を起こし、その名は全国に知られ恐れられることになりました。大長健一は「凶健」と呼ばれ、宮崎斉蔵は「関門の虎」と呼ばれたそうです。

大長健一についてのエピソードは『<兇健>と呼ばれた男』(本堂淳一郎、幻冬舎)に詳しく記載されています。

ヤクザを美化する気持ちは毛頭ありませんが、繁栄する門司港には荒々しい港湾労働者や炭鉱出身労働者も数多く、夜の町を平定するには用心棒的組織のニーズがあったのは間違いありません。門司港は港として中国や朝鮮との繋がりも深く、戦後の混乱期には横暴な振る舞いをする外国人を押さえ込む為に警察だけでは手に負えず、大長健一を頭とする愚連隊も一役をかったとのことです。

<兇健>と呼ばれた男』を読むと、大長健一は現在の暴力団のイメージとは大きく異なるように思えます。大親分と呼ばれながらも、大きな組織を作って動いていたというより、大長健一自らが先頭に立ち一匹狼のように行動してたようです。愛用の鎧通しで少なくとも14人以上を殺害し、生涯負けを知らず誰からも刺されたことがなかった大長ですが、1970年(昭和45年)行きつけのキャバレー月世界で宮崎斉蔵と二人して居るときに従兄弟にあたる土谷誠に刺され、路上に倒れているところを通行人に発見されて病院に搬送されたものの亡くなりました。享年47才、妻君子と飲み屋を開こうとしていた矢先のことだったようです。

<兇健>と呼ばれた男』(本堂淳一郎、幻冬舎)には実在した飲食店や地名がそのまま記載されています。その一つが栄町銀天街と仲町通りを繋ぐ小路「有楽街」にある「はなのつゆ」と「ゆり」です。大長健一の死後50年も経っていますが、今年撮った写真にも店の名前を確認することが出来ます。

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仲通り側から昼間に撮った写真がこちら。「スタンドバー ゆり」の看板が見えます。その右手奥が「はなのゆつ」です。

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コロナの影響もあり、現在も営業中かどうかは確認できていません。有楽街入口の案内板には「はなのつゆ」は示されていました。

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当時の有楽街はどんなだったか、1970年のゼンリン住宅地図から再現してみました。

門司港有楽街 1970
この中で、現在も営業中なのは橙色で記した店のみです。余談ですが、山田屋さんは門司港名物・焼きカレー発祥の店と言われています。また、スタンドバー8番館でバーテンをされてた方が、現在は有楽街内の「スナック館」のマスターです。御年90才近くになりますが現役です。「館」の名前は「8番館」から来ているとのことです。コロナ渦でも営業されていました。

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萬年亀さんは営業中ですが、主力は門司港駅前の旧門司三井倶楽部内のレストランに移っています。

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さて、大長健一の話に戻りますが、彼が若い頃から行きつけだった店「みなと食道」は有楽街から仲通り方面に出て、右に約100mほどいった新町通りの角にありました。現在は近藤ビルになっていますが「和洋彩香みなと」があります。1970年の住宅地図では「みなと食道、近藤」とありますので、おそらく当時の経営者がビルに建て替えたものだと思います。

著書によると、大長健一は「みなと食堂」の特製オムレツが好物だったようです。そして、「はなのつゆ」に移動してフグとエビフライを食べ、直ぐ前の「スナック ゆり」で飲むのが定番だったようです。更に、有楽街から仲町通りを約100mほど左に行った桜町通り付近にあったキャバレー別世界にも度々足を運んでいたようです。土谷誠に刺されたその夜も、この定番コースを辿っていたとのことです。

大長健一ともなると、夜の町を飲み歩くときには若い衆を何人も連れていたはずです。彼らは親分の警護も兼ねていたわけで、有楽街のように両方の出口が通りに面した小路の店は警護の上でも都合が良かったのではないでしょうか。通りに面した店だと敵に踏み込まれればひとたまりもありませんが、突抜の小路ならその両方の入口で見張っておけば難を逃れられることもできます。門司港の繁華街で小路になっているのは、他には栄町銀天街の桟橋通側近くの栄小路くらいしかないので、有楽街は地理的にも都合が良かったのではないでしょうか。

大長健一は、キャバレー月世界で宮崎斉蔵と二人して居るときに刺されたわけですが、普段は若い衆も一緒だったようです。刺されてその場で騒ぎになっていれば、直ぐに病院に運ばれて一命を取り留めたかもしれません。土谷誠は大長の従兄弟にあたるので事を大きくしたくなかったのでしょうし、大長は身内だということで油断もあったのでしょう。土谷誠にすれば身内にしかわからない積年の恨みがあったのかもしれません。

著書には、大長健一が宮崎斉蔵を担いで通りに出て、その先の浅生外科に向かったとあります。大長はその途中で倒れ、宮崎斉蔵は一人でなんとか浅生外科まで到達することができて助かりました。血まみれの大長は通行人に発見されて長崎病院に運ばれましたが息絶えたとのことです。

1960年代前半に撮影された衛星写真(国土地理院)に店の位置をプロットしてみました。

門司港 1960年代前半

大長健一が倒れていたのは桜町通りと3号線の交差点付近なので、中央市場の近く、1970年当時だと出光興産門司支店の大きなガソリンスタンドがあった場所(写真にはまだありません)だと思います。著書では浅生外科と書かれていますが、ゼンリンの住宅地図では「浅尾外科」となっています。現在は既に無く、皮肉なことに、その場所には葬儀屋があります。大長が運ばれた長崎外科はそこから数百メートル離れた丸山にありましたが、現在はありません。

※ この衛星写真はいつ撮られたものなのか?
出光興産門司支店のビルが建設されたのは1963年頃で、その場所はまだ更地にもなっていないので、この写真は1961〜1962年に撮られたものだと推測できます。

1970年(昭和45年)大長健一は刺されて亡くなりましたが、実は随分前から肺結核を患っていて余命1年から1年半位だったそうです。一命を取り留めた宮崎斉蔵は20年後の1990年まで生き、遺骨の一部は関門海峡に散骨されたそうです。

門司港の栄華と共に生き、そして1960年代頃から顕著となった門司港の衰退期の始まりに亡くなった大長健一。門司港の歴史を知る上で避けては通れない人物なのではないでしょうか。

1970年、私は門司港に住んでいました。身近な場所で起こったヤクザの抗争、そして親分の死がニュースになったのをかすかに覚えています。もちろん、当時は単に怖い・・とだけした感じなかったのだと思いますが、彼の生涯を知ると、良くも悪くもほんとに凄い人物だったのだと改めて思い知らされました。

大長健一が生まれたのは当時の常磐町(現在の老松町)で、衛星写真だと中央市場の北側から老松公園の文字が書かれている付近になります。元々闇市があった場所なので治安は必ずしも良かったとは言えません。現在はその痕跡すら残っていませんが。。。戦後に暮らしたのは畑田の戦災住宅です。大長という名字は珍しいので、ゼンリン地図でも場所がわかりました。

1970年代の地図には大長が暮らしたと思われる長屋の記載がありましたが、1982年頃に撮られた空撮写真では、その場所は既に駐車場になっています。現在、写真中の早鞆中学校は既に無く(清見の元・北高等学校があった場所に移転)、港中学校は港ヶ丘小学校になっています。

門司港空撮 1982ca

写真中の矢印部分が大長とその関係者が居た戦災住宅跡地(現在も駐車場)です。その直ぐ横には出光興産の青雲閣(現在も出光興産の所有ですが更地)が写っています。

早鞆中学校と港中学校は丘を挟んで隣り合わせです。しかも、通学路は途中まで同じなので顔を合わせる機会も多く、時折、両校の番長らがいざこざを起こしていました。1970年代頃まで両校の間にある丘が“決闘”の場所になることもあって、教師達が慌てていた姿を見たことがあります。

今の門司港は至って平和で、子供の数も全盛期の数分の1に減り、老人はそのまま残るので超高齢社会になっているのは以前記事にしたとおりです。


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