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2020/01/19

ピッサヌローク旧市街 - 城壁は何処に?

ピッサヌローク Phitsanulok という名前、元々の町はソーンクウェー Song Khwae と呼ばれていて、それは「二つの川」を意味します。つまり、ナーン川ともう一つの川・・・クウェーノイ川 Khwae がある町と言う事になります。現在のクウェーノイ川はピッサヌローク市街地の北側でナーン川に合流していますが、古地図を見てみると、かつてはナーン川と並行してナコーンサワン方面まで流れていたのだそうです。二つの川に挟まれたエリアで交通の便も良くスコータイやランナー王国への入口にも当たるため、クメール王朝の前線基地として重要な場所でした。

ソーンクウェーの市街地は現在のピッサヌローク中心部から南西へ約5km下った場所、ワット チュラーマニー Wat Chula Manee の辺りが中心部だったのだそうです。市街地を現在の場所に移したのは、スコータイ王朝第6代リタイ王(Li Thai, 1347 - 1368)です。リタイ王は、ワット・プラシーラッタナマハタート Wat Phra Si Rattana Mahathat を建立し、チンナラート仏など重要な三体の仏像の鋳造を命じた王です。ピッサヌロークの歴史を語る上で絶対に外せない王の1人です。

ピッサヌロークと呼ばれるようになったのは、ピッサヌロークにアユタヤ王国の王都を一時的に移した第8代トロイローカナート王(Borommatrailokkanat, 1448 - 1488)の時代で、ピッサヌロークとは「ヴィシュヌ神の世界」という意味です。ピッサヌロークの町を設計するにあたり、クメール王国の首都だったアンコールをモデルにしたという説があります。有名なアンコールワットはヴィシュヌ神の神殿だったので、まんざら間違いでは無いのかもしれません。

リタイ王はスコータイ王朝の都をスコータイ(旧市街)からピッサヌロークに移しました。アユタヤ王国が起こされた時期でもあり、アユタヤを警戒してのことかもしれません。いずれにしろ、リタイ王は現在のピッサヌロークの町を作り上げ、1438年にスコータイ王朝が崩壊してアユタヤ王国に吸収されるまで、ピッサヌロークはスコータイ王国の王都でした。

王の住居跡と言われる Chan Palace はリタイ王により造られたと言われています。リタイ王自身が住むために造った住居なのかも知れませんが、その後、アユタヤ王朝時代も王の住居として使われ、ナレースワン大王が Chan Place で生誕したことは有名です。遺跡調査の結果、スコータイ王朝後期からアユタヤ王朝期にかけて少なくとも3回の修復が行われたことがわかっています。ただ、この場所にリタイ王が住んでいた痕跡は見つかってないようで、Chan Palace が造られたのはもっと後の時代だったのかも知れません。

さて、ピッサヌロークの城壁は何処に?
同時代に造られたスコータイ、シーサッチャナライ、カンペーンペットでは城壁と堀の跡が綺麗に残っていますが、ピッサヌロークではそれが一部でしか見当たりません。ナーン川の西側に長い堀の跡はあるのですが、それ以外の場所は衛星写真を見ても良くわかりません。

遺跡調査が進められていて、ピッサヌロークの城壁はナーン川を挟んで両側に広がっていたことがわかっています。下図中の赤線部分に城壁跡が残っていて、黄色線部分が推定です。Wat Poethiyan 内には城壁の一部が残っています。また、Wat Noi の裏手の河岸にも痕跡があるそうです。

Phitsanulok Wall

城壁内に大きな川? 水運には好都合かも知れませんが、敵からの防御を考えると何とも理解に苦しみますし、そんな王都は見たことがありません。同時代の4つの町の城壁地図を並べてみると・・・

CW_Phitsanulok 1 CW_Sukhothai 1CW_Si Satchanalai 1 CW_Kamphaeng Phet 1
(等倍なので城内の大きさも比較可能)

川沿いに城壁を築くのが普通です。スコータイの周りに現存する川はありませんが、かつてはヨム川かその支流がスコータイ城壁近くまで蛇行していたと言われているので、川を掘の一部としてとらえ、王の住む城内が造られてきたと考えられます。よって、ピッサヌロークでは大きなナーン川沿いに王の住居 Chan Palace が造られているのに違和感を覚えます。現在のナーン川は元々は城壁内に水を引くために作られた水路で水かさが増えて本流になった(タイの謎解き散歩、著・柿崎一郎)と考えると疑問が解けます。ナーン川の本流は城壁の外に蛇行していたのかもしれません。

Google翻訳の力を借りてタイ語でも検索してみましたが、「現在のナーン川が水路で本流は城壁の外を流れていた」との記載は全く見当たりません。むしろ、それを否定するかのような記述「Song Khwaeの町はナーン川東側に集中していた」「アユタヤ時代にナーン川西側に Chai Nat という新たな町が造られ行政の管理を担わせた」などが見られ、Chan Palace Historical Center の展示にも同様の事が書かれています。

いずれにしろ、現在のピッサヌロークはナーン川の両岸に広がっているので、Song Khwae と Chai Nat の町を合わせた町なのです。ピッサヌロークでも城壁の発掘調査が進められています。ナーン川東側は既に市街地になっているので新たな発見は少ないかもしれませんが、Wat Poethiyan から Wat Noi 裏手辺りは城壁跡として河岸が整備されていくのではないでしょうか。


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