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2019/06/24

【門司港散策】門司港は昔「楠原村」だった? - 門司の歴史を調べてみた -

門司港の歴史を色々と調べていると、必ず出てくるのが「楠原村」です。かつて「門司港は楠原村と呼ばれていた」という簡単な説明だけで、それがどこだったのか、いつ頃から「楠原」と言う名前が使われなくなったのかが疑問でした。

1967年に住居表示の変更があったとき、それまで使われていた馴染みのある町名の多くが無くなりました。以前は「通りの名前」を基準にした住居表示だったのが、エリア基準の住居表示に変わりました。「通りの名前」基準の住居表示の方が直感的で分かりやすいんですけどね。「●●町●●丁目、●●番、●●号」なんて言われても、大体の場所はわかっても辿り着くのは大変です。海外のように、「●●通り●●番」の方がシンプルだし、特に旅行者には分かりやすいと思います。どちらも一長一短あるので、どちらが良いとは一概に言えませんが。

江戸時代、伊能忠敬が日本全土を旅して測量した地図を元にした1874年(明治7年)の門司区の地図がこれです。ここには現在の門司港中心地辺りに「楠原村」と表示されていますが、直ぐ横には「門司村」とあります。

1874 企救郡 SS

1920年(明治23年)の地図もありました。国会図書館のデジタルライブラリーにある「門司市史」から取りましたが、イライラするほどのピンボケで文字は判読不能。他の資料と付き合わせて文字を復元したものが次です。

1890 門司港の地図 S

この時期に門司の築港がはじまるので、その直前の様子を示しています。ここでは既に「楠原村」の表記はありません。興味深いのは、本村川と栄川です。本村川は元・本川通りに走っていた川で、栄川は川端通りにあたります。暗渠(あんきょ)になっているのかどうかはわかりませんが、現在は川の痕跡は全くありません。(昔は川を挟んで東川端通り、西川端通りと呼ばれていました)それにしても、広大な塩田が広がり田んぼしかなかったのが良くわかります。

1884年(明治17年)当時の各村の人口統計が残っています。それによると、楠原村(1,060人)、門司村(373人)、田野浦村(985人)となっていて、門司村は一番弱小だったわけです。ちなみに、最も人口が多かったのは柄杓田の1,176人です。当時は農作中心だったため、農地の広さと人口が比例していたのでしょう、関門海峡側よりも周防灘側の方に多くの人が住んでいたようです。(いつ頃からか、周防灘側の門司を “裏門司” と呼んでいましたが、現在は港湾整備が進み “新門司” と呼ばれています)

昔の地名(村名)を Google Maps に入れた地図がこちら。

門司の旧村名

この地図を見て・・・・ 「楠原」だけが現在の地名に残ってないのです。

子供の頃、漠然とした疑問がありました。「旧門司」はあるのに何故「門司」は無いのか。なぜ「旧門司」と呼ばれているのか。(当時はまだ「新門司」はありませんでした。また「旧門司」は現在も町名として残っています) 「旧門司」と呼ばれているエリアこそが元々の 門司 だったのです。和布刈神社のあたりから甲宗八幡宮までのエリアです。九州最北端に位置し、文字ヶ関(門司ヶ関とも書かれる)や古城山があるので江戸時代より前から要所だったのでしょう。

楠原村が消えた時期ははっきりしています。門司市史には、1887年(明治20年)に門司村と楠原村が合併して「門司村」になったとあります。同じ年、田野浦村と田ノ浦町(新開)が合併して「田野浦村」も誕生しています。また、大里エリアでは、大里村・東原町村・新町村・二十町村・柳村・馬寄村が合併して「柳ヶ浦村」ができました。楠原村の方が門司村よりも人口が多かったのに、由緒ある「門司」という名には勝てずあっさりと村名を捨ててしまったのです。

その2年後の 1889年、町村制施行に伴い、門司村、田野浦村、小森江村が合併して企救郡文字ヶ関村が誕生しました。築港が始まり勢いを増しつつあった 門司村 ですが、江戸時代から栄えた 田野浦村の勢力もまだ強く、猛抗議を受けて 「門司村」とはならずに妥協案として「文字ヶ関村」になったと言われています。同じ年、大積村・白野江村・黒川村・喜多久村・柄杓田村が合併して企救郡東郷村に、猿喰村・畑村・今津村・吉志村・恒見村・伊川村が合併して企救郡松ヶ江村に、柳ヶ浦村はそのまま企救郡柳ヶ浦村になりました。これで、現在の北九州市門司区の原型がこの四つのでできあがりました。

楠原村の話に戻ります。
楠原村の名前は、川沿いの野原に群生した楠木に由来すると言われています。門司港の地形を見ると、錦町から栄町にかけては扇状に広がる扇状地なのではないかと思います。その中心に流れていたのが栄川で、場所は川端通りにあたります。とすると、川端通り沿いのどこかに楠木があった。。。

こんな時、昔の町名(通り名)は素晴らしい。子供の頃は考えたことも無かったのですが、確かに今の錦町に楠町通りというのがあったのを思い出しました。今はどの地図を見ても楠町通りの名前は見当たりません。1928年(昭和3年)の地図には楠町通りと川が示されています。

1928 門司市街地_SM

川と楠町通りが交差する辺り、今はもう何の痕跡もありません。こちらの写真は現在の元・楠町通りです。この空き地には以前、梅の湯さんがありました。

TMH_IMG_4478.jpg

それにしても何故、門司のルーツとも言える楠原村の名前を消してしまったのでしょう。痕跡はないものでしょうか。

以前、区役所の裏手の清瀧に大きな楠木があったと聞いたことがあります。現在もあるのかどうか未確認です。レトロ展望台から錦町方面を撮った写真を見ると、道が分岐する辺りに大きな木があるのを見つけました(写真中央上部、道を遮るように立っている木)。Google Street View で見てみると案内掲示などは何も無さそうです。

TMH_SNA05856R.jpg

大きな木だったようで、定かではありませんが、どこかに移されたという話も聞いたことがあります。次回訪問時は「楠原」の痕跡を探しに行ってみよう考えています。

楠原の名前を残す物として、北九州市指定無形民俗文化財「楠原踊」があります。毎年、甲宗八幡宮の秋祭りで踊られていますが、元々は楠原村の雨乞い踊りだったそうです。


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