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2019/06/11

【門司港散策】甲宗八幡宮 860年に創建された古い神社

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「甲宗」とは神功皇后の着用した御甲(かぶと)が御神体として祀られていることに由来する名前です。貞観2年(西暦860年)、平安時代の僧侶行教が宇佐八幡宮のご分霊を山城国(京都府)にお遷しする途中で門司関の霊峰筆立山(大宮山)の山麓に滞在した際、この地に宇佐八幡宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)として外朝西門鎮守門司八幡宮(後に甲宗八幡宮)を創建したと伝えられています。

甲宗八幡宮には、第一殿に応神天皇、第二殿に神功皇后、第三殿に宗像三女神(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)が祀られています。

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甲宗八幡宮の歴史を見てみると、1185年(文治元年)平家と源氏による壇ノ浦の戦いで勝利した源範頼・源義経が参拝したとあります。鎌倉時代には豊前代官職として藤原親房(後の門司氏)が着任し、門司六ヶ郷(楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷)を統治した際には、甲宗八幡宮を氏神として崇敬したそうです。門司は海峡を挟む要所であったため、数々の戦乱に巻き込まれたであろうことは容易に想像できます。

壇ノ浦の合戦で平家一門は破れ、安徳天皇・二位尼が関門海峡に入水して亡くなられたのは有名な話です。安徳天皇陵は下関の赤間神宮内にありますが、乳兄弟の服部家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した平知盛の墓は甲宗八幡宮にあります。境内の社務所右手裏にひっそりと祀られています。

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近年では、門司港で起業した出光興産の創業者 出光佐三氏との関わり合いも深いです。1920年(大正9年)には出光佐三氏の病気平癒祈願が行われており、1973年(昭和48年)には正面大鳥居が出光佐三氏により奉納されています。鳥居の額束に書かれた「甲宗八幡宮」の文字は出光佐三氏自らが書いたものです。手水舎は長男の出光昭介氏(現出光興産名誉会長)により奉納されました。

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門司港レトロの中心部からだと歩いて約15分程度、電気通信レトロ館の更に先にあります。道沿いにあるので見落とすことはありません。長い階段の途中左手には1924年(大正13年)に建立された本居宣長の歌碑があります。

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境内奥の方には能舞台「神敬閣」があります。祭りの他にイベントでも能が演じられているそうです。

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門司港には直ぐ近くに仲哀天皇9年(200年)に創建された「和布刈神社」があります。関係が気になって甲宗八幡宮の歴史を見ていると、次のような記述がありました。

藩主小笠原忠真は甲宗八幡宮を門司六ヶ郷(楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷)の総鎮守とし到津・宮尾(篠崎)・蒲生の各八幡宮とともに領内四所八幡宮として尊ぶ。さらに祇園社(八坂神社)を加えた五社を豊城鎮護府内五社(甲宗・祇園・到津・宮尾・蒲生)としてその上位と仰ぎ別格社の速人社(和布刈神社)と共に毎歳幣帛の儀滞りなく行われる。

和布刈神社は別格だったのですね。

子供の頃、境内を何度か通ったことがあります。何故覚えているのかと言うと、ここはパコダや和布刈公園に行く近道だったからです。甲宗八幡宮の神殿、拝殿などは第二次世界大戦末期の門司大空襲で焼失し、1958年(昭和33年)に再建されました(能舞台「神敬閣」の再建は2008年、平成20年)。よって、私が境内を通っていた頃は能舞台は無くて神殿が再建されて間もない頃だったわけです。

パゴダへの近道は、東門司方面からだとロープウェイの建物横から関門国道トンネル入口上の細い道を通ると「馬場道」に出ます。今もあるラブホ的な建物の横に小さな階段があってそこから神社に入ります。当時は確か、能舞台がある広場に何か建物が建っていたように思います。境内を横に通り抜けるとパゴダへの近道に出ます。今はその近道も山中は獣道になっていて通れなさそうですが。。


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