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2019/08/06

門司港は「海賊とよばれた男」のモデル・出光興産創業者 出光佐三 ゆかりの地(2)

出光佐三という人物を色々と調べてみると、彼は郷土愛に満ち溢れ、生まれ故郷にある宗像大社を生涯にわたって深く崇拝し、そして家族を何より大切にした偉大な人格者だったことが良くわかります。

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宗像市赤間の出光佐三生家

出光佐三は1885年(明治18年)8月22日に、福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)で藍卸商を営む裕福な家庭に次男として誕生します。出光の実家は国指定登録有形文化財にも登録されるほどの立派な豪邸で、明治26年建築とされています。佐三はまだ8歳、赤間尋常小学校に通う頃で、出光家の商売はまだ繁盛していました。佐三は宗像高等小学校に進みます。卒業後、1年間は藍卸商の手伝いをして、16歳の時に福岡商業学校に入学しました。時代は日露戦争が始まる頃、日本海海戦で勝利するなど日本は好景気に沸いた頃でした。

佐三は19歳の時(1905年、明治38年)神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学します。23歳で卒業、鈴木商店の合格通知を受け取る前に酒井商会に丁稚として入り、約2年間ほど下積み生活を送りました。そして、25歳の時に門司市に出光商会を創業しました。

子供を大学にまで進学させるほど裕福な家庭だったのに、大企業鈴木商店からの合格通知を受け取る前にしびれを切らして零細企業に就職し、わずか2年足らずで門司市に移り住んで会社を設立・・・よほどの理由があったに違いありません。

宗像考古刊行会発行の「出光佐三と宗像、著・花田勝広」には「明治42年頃に佐三の意に反して出光家の家族は、実業を閉店し、追われるように宗像を去っている」とあります。つまり、屋敷は人手に渡り夜逃げするように宗像を去ったのです。そして一家は八幡、小倉と移り住み、佐三が門司で創業する頃は門司に住んでいたようです。明治42年というと、佐三が神戸高等商業学校を卒業した年。鈴木商店からの合格通知を待つより、早く就職して親兄弟を助けたいと思ったとしても不思議ではありません。同著には、「その頃、佐三は卒業証書を捨て、宗像会も脱退した」とも書かれています。

24歳の佐三は丁稚奉公を続ける傍ら家庭教師をしていました。その時に出会ったのが日田重太郎だったのです。

当時発展著しい門司港で、25歳にして起業した出光佐三は、9歳年下の弟・泰亮(当時15歳)を丁稚として出光商会に入れ、油を入れた大八車を二人で引いて売り歩いていたそうです。兄弟で創業時の苦難を乗り切ったのですね。仕事が軌道に乗り出すと、佐三は他の弟二人も出光商会に誘います。8歳年下の出光弘は海上で燃料の計量売りを始め、後に自ら新出光石油(株)を創業します。15歳年下の末っ子、出光計助は出光佐三の後継者として出光興産の二代目社長になります。

さて、出光商会が門司港で栄華を極めていたのは1925年(大正14年)から1940年(昭和14年)頃。出光商会だけでなく、門司港全体が栄華の絶頂にあったと言っても過言ではありません。1932年(昭和7年)の門司市勢要覧によると、門司市の人口は約11万人(職業人口は15万人)で、劇場4軒、映画館7軒、貸座敷13軒、料理店270軒、飲食店356軒、旅館85軒と、現在の門司港からは想像も出来ないくらいサービス産業が栄えていたことがわかります。

中でも、高級料亭は花柳界の中心的存在で、三宜楼、菊の家、三笠(後の料亭・松尾)は三大料亭と呼ばれていました。出光佐三も足繁く通ったと言われています。

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出光佐三も通ったであろう三宜楼に続く道(三宜楼坂)、奥に見えるのが三宜楼

「門司港」発展と栄光の軌跡(著・羽原清雅)には「門司の三羽烏」として紹介されています。出光佐三の他は、船舶で財をなし門司市長にもなった中野真吾、米卸商の久野勘助の二人です。三人は門司の料亭の草分け的存在であった菊の屋で毎月開かれる例会で顔を会わせ芸者をあげて騒いでいたそうです。菊の家、三笠ともに現存せず、建物が残っているのは三宜楼のみです。

出光商会の商売が軌道に乗り始めると、創業からわずか5年で満州でのビジネスに乗り出し成功します。当時の門司港は大連航路で中国と繋がっていたのでごく自然の流れだったのかもしれません。しかし、第一次世界大戦がもたらした好景気は長く続かず、関東大震災もあって一気に不況の波が押し寄せます。当時、門司に一大コンツェルンを築いて繁栄していた鈴木商店は、その並に飲まれて倒産に向かいました。出光商会も例外では無く、ウィキペディアによると「1924年(大正13年) 第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。」とあります。ここでも出光佐三はその人望で苦境を乗り切ることができたわけです。

二十三銀行(現・大分銀行)門司支店ビルは1922年(大正11年)に竣工し、出光商会はその2階に本店を移転しています。

大分銀行門司支店

このビルは、二十三銀行の流れを引く大分銀行が2001年まで使用していましたが、銀行の支店統合の影響もあり、2006年(平成18年)に解体されてしまいました。一見新しそうに見える建物ですが、れっきとした大正建築です。門司港レトロ観光を推し進めていた中で貴重な建造物が解体されたのは残念でなりません。ちなみに、隣に写っているのは明治屋門司支店。こちらも解体されていた現在はありません。場所は鎮西橋から直ぐ近くで、旧・日本銀行門司支店の向かい側にあたります。

出光商会が満州に進出した翌年には大阪商船ビルが新築落成します。1階には待合室と税関の事務所があったので佐三たち出光商会の社員達も利用したことでしょう。門司税関1号上屋(大連航路上屋)が完成したのは1929年(昭和4年)です。

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こういったビルは夜景の方が趣があって良いです。

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出光佐三ゆかりの地で忘れてはいけないのは甲宗八幡宮です。信心深かった佐三にとって神社は特別な存在だったのだと思います。故郷の宗像大社の復興にも多額の資産を投じ、生涯にわたって宗像の発展を支え続けてきました。そんな宗像大社には出光佐三の痕跡は残されてないのだそうです。「決して自分の名を出すな」と言った日田重太郎にも通じる思いがあったのでしょう。ですが、甲宗八幡宮の石柱には出光佐三の名前がしっかりと刻まれています。

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また、正面の鳥居は1973年(昭和48年)に出光佐三氏が奉納したもので、鳥居の額束に書かれた「甲宗八幡宮」の文字は出光佐三自らが書いたものです。

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出光佐三は、芸能・文化・芸術においても造詣が深く、多くの美術工芸品を収集しています。その一部は門司港レトロに作られた出光美術館に展示されています。また、1958年(昭和33年)に落成した門司文化会館の建設にも多大な貢献をしたそうです。

故郷・宗像においては宗像大社の復興、大学の誘致なども手懸けています。2017年に宗像大社の沖ノ島と関連遺跡群が世界遺産に登録されましたが、出光佐三と兄弟らによる復興・遺跡調査などがなかったら世界遺産登録は成しえなかったのかもしれません。

出光佐三は、門司港で創業して花開いたけれど、心はいつも宗像にあったのだと思います。会社としては門司を出て行き、現在、門司港に残されているものは出光美術館くらいでしょうか。それだけでも有り難いことですけどね。

出光興産と門司との関係はまだ続いています。出光興産は新門司の埋め立て地に広大な門司油槽所を持っていました。2013年、その遊休地に出光興産初のメガソーラー「門司発電所」が建設されたのです。「最初は門司から・・」そんな思いを勝手に感じています。また、すぐ隣には新出光「新門司ソーラーパーク」も建設されています(2014年)。栄華を極めた時期に門司港で起業した大企業は他にもあります。ですが、そのほとんどは門司港から居なくなりました。そんな中、出光は今なお、門司を支えてくれてるのだなぁと感じる次第です。


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2019/08/02

門司港は「海賊とよばれた男」のモデル・出光興産創業者 出光佐三 ゆかりの地(1)

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明治中期以降、急速に発展を続ける門司で誕生したのが「出光商会」です。創業者の出光佐三は1885年(明治18年)8月22日 福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)に生まれ、 福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)を経て1909年(明治42年) 神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)を卒業しました。同期だった高畑誠一(後に皇帝のような男と呼ばれて鈴木商店を支えた)と共に当時貿易商として躍進し始めた鈴木商店への入社試験を受けるも、合格通知が遅れたため、佐三はやむなく酒井商会(小麦粉や石油などを取り扱う従業員僅か三名の零細商店)に丁稚として入店したそうです。当時、神戸高等商業学校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが通常だったため、学友からは「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と罵られたと言われています。

出光佐三の人生を変えたのは、淡路島出身の資産家・日田重太郎との出会いでしょう。佐三は酒井商店で働きながら日田の息子の家庭教師していて、その縁で独立を進められ資金を提供されたとのことです。まだ若干25歳の若者に現在の価値で約1億円にもなる資金をポーンと出すなんて、佐三は人間的に、そしてビジネスマンとしても相当魅力があったのだろうと思います。その時、日田に言われた約束を生涯に渡って貫き通したのだと思います。

「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私が金を出したことは他言するな。」

「海賊とよばれた男」の映画の中では、日田重太郎は年配の設定ですが、実際は佐三と一回り位しか違わない年齢だったようです。

出光佐三は、日田に提供してもらった資金を元手に、1911年(明治44年)、著しく発展を続けていた門司に「出光商会」を設立します。当時の門司は鉄道と海運の要所として栄華を極めていて、ビジネス環境として最適の場所でした。もちろん、故郷の宗像に近かったことも門司を選んだ理由だったのでしょう。くしくも、高畑誠一が行った鈴木商店も門司に一大コンツェルンを作り始めていました。1904年(明治37年)に「大里精糖所」を開設し、地の利を活かして大手「大日本精糖」を圧倒、1907年には「大里精糖所」を「大日本精糖」に売却することで莫大な資金を手にし、それが鈴木商店跳躍のきっかけになったと言われています。

鈴木商店は、その後も1911年(明治44年)に大里製粉所(現・日本製粉)、1912年(明治45年)に帝国麦酒(現・サッポロビール)、1914年(大正3年)に大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、1917年(大正6年)に神戸製鋼所(現・神鋼メタルプロダクツ)、1918年(大正7年)に日本冶金(現・東邦金属)などを次々に門司大里地区に設立していきました。

さて、映画の中では創業間もない出光商会の経営は必ずしもうまくいっておらず、出光が日田に「借金は必ず返します!」と頭を下げるのですが、日田は「貸した覚えはない、あげたんや」と言うシーンがあります。それが事実かどうかはわかりませんが、汽車に乗って筑豊の炭鉱地帯に行き、機械油を販売したものの全く成功しなかったのは事実のようです。その後、出光商会は船舶用の燃料油販売を手懸け商売が軌道に乗ると、1913年に200mほど離れた三井銀行門司支店直ぐそばに本店を移転しています。映画に出てくるシーンは実際の写真を元にしたものです。

映画海賊とよばれた男

オリジナル写真はこちら。

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奥に見える特徴的な屋根を持つ建物は、元・三井銀行門司支店です。手前には路面電車の線路が写っています。出光商会の倉庫はこの通りを奥に進んで甲宗八幡宮前にありました。当時、元・塩田を取り囲むように作られた堀川(現在は埋め立てられて道になっています)で門司港の第一船溜と第二船溜は結ばれており、甲宗八幡宮前から船で関門海峡に出ることが出来ました。

現在の様子はこちら。昔の面影を残すものは何も残っていません。ちなみに、創業の地(上の写真の場所から約200m離れた鎮西橋交差点付近)にはレリーフが建てられています。

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何故、出光佐三は海賊と呼ばれるようになったのか。出光が船舶用燃料油の販売を始めた頃は販売区域が決められており、門司から下関への販売はできませんでした。そこで出光が取った手段は「海上販売」という誰も思いつかなかった禁じ手だったのです。同業者からの非難に対して「船上売買の海上には境界は無い」と反論して販売拡大を続けたそうです。そのため、出光佐三のことを「海賊」と呼ぶようになったと言われています。まだ20代後半の若さだったこともあり、古い仕来りにとらわれず柔軟な発想でビジネスを切り開いていったのだと思います。

(つづく)

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