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2019/10/29

【門司港散策】清滝の路地を歩く(2)

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門司港は坂の町です。子供の頃は気にもしなかったのに、この年になって町を散策してみると、こんなにも坂道が多かったのかと驚かされます。😅 門司港が繁栄していた大正から昭和にかけて、花街の中心だったのが清滝界隈です。多くの料亭があったそうで、その代表格が三宜楼です。三宜楼は栄町銀天街の桟橋通側から少し坂を登ったところにあります。

清滝には古い路地がまだ残っています。車や重機も通れない狭い路地の先に民家があり、昔の人はどうやって家を建てたのだろうかと不思議に思えるほどです。その狭い路地と坂のおかげで再開発を免れ今なお昔のままの姿を残しているのでしょう。

清滝の路地は何度も散策しています(清滝の路地を歩く)。清年神社に行くのも路地散策になるのですが、今回は坂の一番上にある “とある方” のお宅外観を見たくて登ることにしました。清滝の路地の先にある少し変わった建物ということで、ネットでも何度か見かけたことがあります。私も何度か探したのですが雑草と蜘蛛の巣に阻まれて行き着くことが出来ませんでした。グリシェンカフェの方に聞くと、場所的には間違いないとのこと。きっと、あの蜘蛛の巣の先にお宅はあるのだろう・・

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出発地点は「むつみ関門荘」前の路地。路地まで正確に記載されてる Yahoo地図にコースを記します。むつみ関門荘の坂を登って左折、そして直ぐに右折して坂道が始まります。直ぐに見えてくるのは赤煉瓦の塀で囲まれた民家。その前にも家があったのでしょうが、更地にされ草が生えた広場になっています。この写真の真ん中の家が「路地裏ギャラリー(週末のみオープン)」になっています。

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先を更に真っ直ぐ進むと、イイ感じの坂道の路地が続きます。

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その先で道は二股に分かれます。この辺りに家を建てるためには石垣は欠かせません。まるで城の城壁をのような立派な石垣は見逃せません。

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この角を道なりに真っ直ぐ進むと一番奥には民家があって行き止まりです。既に取り壊されて整地された民家跡もいくつかありました。

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かなり登ってきた感覚で、この辺りで下を見下ろすと関門橋と門司港レトロの町並みを見ることができます。車も通れない坂上に家があると上り下りは大変ですが、こういった景色を毎日みられるなんて、ちょっと贅沢な感じもしました。

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お目当てのお宅は先ほどの二股を右に曲がって清年神社に抜ける道にあります。道を曲がったところまでは何度か来たことありますが、その先に入るのは今回が初めてでした。

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道が先に続いているのはわかっても、目的無くしてなかなか先に入ってみようとは思えない雰囲気。この角のお宅も既に空き家になってる感じでした。蜘蛛の巣を払いながら少し先に進んでみると・・・

臆病者な私は、猪とか小動物、蛇などが出てくるのではないかと恐る恐る先に進んだわけですが、この道の先にお目当てのお宅を発見、無事に外観を拝見することが出来ました。多分、季節によっては木々や草が生い茂ってなく散策路として安全な場所だと思います。

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グリシェンカフェのママは「タイルの家」と呼んでるそうで、明らかに普通の民家ではありません。タイルと言えば昔のカフェ(喫茶店では無い)を思い浮かべますが、カフェの典型的な構造とは異なります。2階の丸い窓や、窓越しに見える内部のふすまの装飾などからすると、元々は料亭だったのでは・・・と想像しています。建物の周りは枯れ葉などが散財して荒れ果ててるようにもみえましたが、入口の明かりは付いていたので、まだ使われてる家なのだとわかります。

もう少し路地を進んで上から見てみると、枯れ葉が積もって人通りが無いのがわかる小路の先に見える「タイルの家」もなかなか趣があって良い。

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更に上の方はこんな感じで、登って行くには少々勇気がいりました。蜘蛛の巣が張りめぐらされてて、ここで断念。この先、20~30m進むと清年神社に出ることが出来ます。

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お宅の前には朽ち果てそうな門構えだけが残っています。1970年のゼンリン住宅地図を見てみると、ここには北辰という会社の寮があったようです。現在、門の内側には何も建物は残って無く草木が生い茂っていました。数十年間も放置されたままだと草木が生え放題で森に戻る・・・まさにそんな感じだと思いました。


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2019/10/28

【門司港散策】大正時代創業のカステラの三玉家、門司銘菓・与次兵衛

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鎮西橋から老松公園方面に少し入ったところに、大正10年(1921年)創業の菓子店「三玉家」はあります。この通り、何度も通っているのに店の存在に全く気がつきませんでした。門司港が栄えてた頃は通りには店も沢山あり賑わっていたのでしょうが、現在は開いてる店を探す方が難しいくらい。😅

店主は3代目だと話されていたと思います。以前、菓子折に入れてた昔のしおりを見せて頂きましたが、それによると、創業者は長崎でカステラ作りの修行をして、この地に店を構えたのだとか。当時の門司港の繁栄ぶりからすると、立地条件は最高だったのではないでしょうか。

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大正10年頃と言うと、同じ通りには映画館などが建ち並び、老松公園の場所に公設市場が開設された頃です。また、店の前にはまだ掘(第一船溜と第二船溜を結ぶ運河)があり船が行き交っていたことでしょう。日本銀行門司支店は掘を挟んですぐ目の前です。門司港は戦後になって急速に衰退していきますが、1970年代頃まで栄えてた東本町商店街の入口にあたります。

私は店主お薦めのカステラと門司銘菓・与次兵衛を購入しました。カステラは大変素朴で昔ながらの美味しさ・・とでも言いますか、甘過ぎず飽きの来ない味わいでした。与次兵衛を購入したのは、その名が門司ゆかりの明石与次兵衛に由来するからです。直径5センチほどの変わった菓子で、ほんのりした甘さと塩加減、そしてコロコロとした食感も楽しめました。

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さて、明石与次兵衛について、時代は豊臣秀吉の頃に遡ります。文禄元年(1592年)、朝鮮出兵のために名護屋城にいた秀吉が、母の急病を知り急遽大阪城に戻る際に海峡の篠瀬で座礁してしまいました。その時、当時の船奉行だった明石与次兵衛が責任をおって大里の浜で割腹して亡くなりました。後の豊前国藩主が明石与次兵衛の死を悼むと共に、往来船舶の安全の為に篠瀬に「与次兵衛塔」を建てて示標としたと言います。

戦時中は海中に放置されていましたが、昭和30年(1955年)地元有志により引き上げられて海難守護神として和布刈公園内に移され、関門橋建設に伴い昭和47年(1972年)に現在の地に移されたとのことです。場所は、和布刈公園入口の直ぐ近くです。

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この裏手の小高い場所に「明石与次兵衛の塔」はあります。(階段あり)

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この場所から関門海峡を眺めることができます。

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ノーフォーク広場から和布刈公園に向かう坂道を歩いて直ぐの場所です。散策の途中に寄ってみたらいかがでしょうか。


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2019/10/03

【門司港散策】清滝にある清年神社

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清年(きよとし)神社は三角山の麓から少し登った高台にあります。ルートは、むつみ関門荘脇の路地から進む方法と三宜楼側から登っていく道です。どちらも清年神社で繋がっています。Google Maps では道が途中で途絶えてしまっていますが、Yahoo Map なら細かい路地までほぼ正しく描かれています。

清年神社地図

清年神社の建立年や由来など詳細不明ですが、甲宗八幡宮のご縁によりご分社・ご末社として成立されたと言われています。主祭神は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)です。清滝地域の土地神として、また、昭和28年水害の鎮魂神治神、太平洋戦争の出征地神として、戦艦衣笠の砲弾が祀られています。毎年、10月に秋祭りが行われ、正月の後にはどんと祭り(お正月に飾った門松や松飾り等を神社や地域の人達で集めて焼く年中行事・火祭り)が開かれているそうです。

私は、むつみ関門荘脇の路地から登ってみましたが、残念ながら、うっそうと生い茂る草木と蜘蛛の巣に阻まれて神社手前で挫折してしまいました。普段は人通りが無いのでしょう。猪が出る可能性もあったのでさっさと退散して三宜楼側から登り直すことにしました。

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三宜楼側から登ると神社鳥居脇まで民家があります。坂と階段でかなり体力を消耗して、やっとの思いで清年神社に辿り着きました。途中の道は次のように比較的安全 😊、清年神社正面の鳥居は冒頭写真にある通りです。

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階段を上って鳥居をくぐると、右手に手水舎があり、更に上に続く階段脇に灯籠と狛犬が置かれています。

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左側の狛犬の奥には上に登る道があります。この道が、むつみ関門荘脇を登るルートの道に繋がっています。地図で見たところ、私が断念した場所から清年神社までは約20~30mくらい、途中に脇道があり、かつてはその先にも民家があったようです。

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正面には、木造で古びた拝殿があります。中を覗いてみるとテーブルが一つ置かれていました。祭りの際にはここで “宴会” が催されるのでしょう。

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写真を整理していて、ここで致命的なミスを犯していることに気付きました。実は、この拝殿の奥に本殿があるのですが写真に収めるのを忘れてしまってたのです。まぁ、かなり疲れ果ててましたから致し方ないというか・・・またの機会の宿題とします。とりあえず、ネットで拾った写真を貼らせて頂きました。(https://plaza.rakuten.co.jp/sengokulily/diary/201203050000/)

清年神社 2012
写真左下に写っているのが砲弾です。

拝殿前の階段上から撮った写真がこちら。遠くに関門海峡が見え、神社直ぐ脇まで民家があることがわかります。

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狭い境内は地元の方々が時々清掃しているのでしょう。落ち葉が集められたり手が加えられてることがわかります。秋の例祭には地元の子供達も集まるらしいです(そのような写真を見たことがあります)。大人はもっぱら、御神酒でしょうか 😆

町内の掲示板によると、今年の秋の例祭は10月27日(日)とのこと。甲宗八幡宮から宮司をお迎えして執り行われるようです。宿題もあるし、都合付けてまた行きたい。。



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2019/09/28

【門司港散策】鉄オタ必見!「めかり饅頭」で有名な老舗菓子店「柳月堂」

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柳月堂(石井製菓)は、1897年頃(明治30年)に門司港名物「めかり饅頭」の製造販売を始めた老舗菓子店です。「めかり饅頭」を発売する前にも菓子を製造してたとすると、創業は更に遡るはずです。当時の門司港はどうだったかというと、まだ門司市になる前で門司町と呼ばれていた頃で、鉄道と港の発展を背景に門司港が街が日に日に発展していた時期になります。

初代門司駅(現在の門司港駅)が開業したのが 1891年(明治24年)、料亭 群芳閣が駅前に開業し、桟橋通に石田旅館が開業したのが 1895年(明治28年)です。旅館や料亭に菓子は付きものなので、時をさほど経ずに石井製菓は創業したのでは無いでしょうか。ちなみに、柳月堂本店は石田旅館の隣にあったそうです。(つい最近、本店ビルは取り壊されて更地になりました)

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「めかり饅頭」の歴史は120年以上になります。風光明媚な関門海峡に、神代の伝説を秘めて点在する満珠・干珠の二島をかたどり、粒餡と白餡をそれぞれ源平合戦の赤・白の旗になぞらえ作られたと言われているそうです。非常にシンプルで素朴な一口大の蒸し饅頭です。1個46円です。

さて、何故「鉄オタ」必見なのかというと・・・
実は、柳月堂の店内に鉄オタがワクワクするような展示があるからです。元鉄オタとしては、お店の人に許可をもらって店内の写真を撮らせてもらいました。そういうお客さんも結構いますよ・・とのこと。その写真がこれ、菓子のショーケース奥の壁にドーンと飾られていました。

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昔、九州を走ってた特急列車のヘッドマークです。門司港駅近くの九州鉄道記念館にも「つばめ」などのヘッドマークが展示されていますが、柳月堂店内展示もなかなか迫力があります。ショーウインドウに向かって背中側には、列車の行き先を示す「行先標」も多数掲示されています。

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経由地の記載がある門司港行パネルはいいですね。数少なかった門司行のパネルもありました。さらには、かなり古いと思われる右から左に書かれたパネルも(写真左上)。

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ブルートレインのワッペンも珍しいと思います。「みずほ(東京-熊本・長崎)」「さくら(東京-長崎)」「はやぶさ(東京-熊本)」

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蒸気機関車のミニアチュアなども多数展示しています。「めかり饅頭」や他の菓子を買うついでに店舗に行ってみると楽しいです。



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2019/08/06

門司港は「海賊とよばれた男」のモデル・出光興産創業者 出光佐三 ゆかりの地(2)

出光佐三という人物を色々と調べてみると、彼は郷土愛に満ち溢れ、生まれ故郷にある宗像大社を生涯にわたって深く崇拝し、そして家族を何より大切にした偉大な人格者だったことが良くわかります。

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宗像市赤間の出光佐三生家

出光佐三は1885年(明治18年)8月22日に、福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)で藍卸商を営む裕福な家庭に次男として誕生します。出光の実家は国指定登録有形文化財にも登録されるほどの立派な豪邸で、明治26年建築とされています。佐三はまだ8歳、赤間尋常小学校に通う頃で、出光家の商売はまだ繁盛していました。佐三は宗像高等小学校に進みます。卒業後、1年間は藍卸商の手伝いをして、16歳の時に福岡商業学校に入学しました。時代は日露戦争が始まる頃、日本海海戦で勝利するなど日本は好景気に沸いた頃でした。

佐三は19歳の時(1905年、明治38年)神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学します。23歳で卒業、鈴木商店の合格通知を受け取る前に酒井商会に丁稚として入り、約2年間ほど下積み生活を送りました。そして、25歳の時に門司市に出光商会を創業しました。

子供を大学にまで進学させるほど裕福な家庭だったのに、大企業鈴木商店からの合格通知を受け取る前にしびれを切らして零細企業に就職し、わずか2年足らずで門司市に移り住んで会社を設立・・・よほどの理由があったに違いありません。

宗像考古刊行会発行の「出光佐三と宗像、著・花田勝広」には「明治42年頃に佐三の意に反して出光家の家族は、実業を閉店し、追われるように宗像を去っている」とあります。つまり、屋敷は人手に渡り夜逃げするように宗像を去ったのです。そして一家は八幡、小倉と移り住み、佐三が門司で創業する頃は門司に住んでいたようです。明治42年というと、佐三が神戸高等商業学校を卒業した年。鈴木商店からの合格通知を待つより、早く就職して親兄弟を助けたいと思ったとしても不思議ではありません。同著には、「その頃、佐三は卒業証書を捨て、宗像会も脱退した」とも書かれています。

24歳の佐三は丁稚奉公を続ける傍ら家庭教師をしていました。その時に出会ったのが日田重太郎だったのです。

当時発展著しい門司港で、25歳にして起業した出光佐三は、9歳年下の弟・泰亮(当時15歳)を丁稚として出光商会に入れ、油を入れた大八車を二人で引いて売り歩いていたそうです。兄弟で創業時の苦難を乗り切ったのですね。仕事が軌道に乗り出すと、佐三は他の弟二人も出光商会に誘います。8歳年下の出光弘は海上で燃料の計量売りを始め、後に自ら新出光石油(株)を創業します。15歳年下の末っ子、出光計助は出光佐三の後継者として出光興産の二代目社長になります。

さて、出光商会が門司港で栄華を極めていたのは1925年(大正14年)から1940年(昭和14年)頃。出光商会だけでなく、門司港全体が栄華の絶頂にあったと言っても過言ではありません。1932年(昭和7年)の門司市勢要覧によると、門司市の人口は約11万人(職業人口は15万人)で、劇場4軒、映画館7軒、貸座敷13軒、料理店270軒、飲食店356軒、旅館85軒と、現在の門司港からは想像も出来ないくらいサービス産業が栄えていたことがわかります。

中でも、高級料亭は花柳界の中心的存在で、三宜楼、菊の家、三笠(後の料亭・松尾)は三大料亭と呼ばれていました。出光佐三も足繁く通ったと言われています。

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出光佐三も通ったであろう三宜楼に続く道(三宜楼坂)、奥に見えるのが三宜楼

「門司港」発展と栄光の軌跡(著・羽原清雅)には「門司の三羽烏」として紹介されています。出光佐三の他は、船舶で財をなし門司市長にもなった中野真吾、米卸商の久野勘助の二人です。三人は門司の料亭の草分け的存在であった菊の屋で毎月開かれる例会で顔を会わせ芸者をあげて騒いでいたそうです。菊の家、三笠ともに現存せず、建物が残っているのは三宜楼のみです。

出光商会の商売が軌道に乗り始めると、創業からわずか5年で満州でのビジネスに乗り出し成功します。当時の門司港は大連航路で中国と繋がっていたのでごく自然の流れだったのかもしれません。しかし、第一次世界大戦がもたらした好景気は長く続かず、関東大震災もあって一気に不況の波が押し寄せます。当時、門司に一大コンツェルンを築いて繁栄していた鈴木商店は、その並に飲まれて倒産に向かいました。出光商会も例外では無く、ウィキペディアによると「1924年(大正13年) 第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。」とあります。ここでも出光佐三はその人望で苦境を乗り切ることができたわけです。

二十三銀行(現・大分銀行)門司支店ビルは1922年(大正11年)に竣工し、出光商会はその2階に本店を移転しています。

大分銀行門司支店
(http://www.uraken.net/eg/kyusyu/moji/01.jpg)

このビルは、二十三銀行の流れを引く大分銀行が2001年まで使用していましたが、銀行の支店統合の影響もあり、2006年(平成18年)に解体されてしまいました。一見新しそうに見える建物ですが、れっきとした大正建築です。門司港レトロ観光を推し進めていた中で貴重な建造物が解体されたのは残念でなりません。ちなみに、隣に写っているのは明治屋門司支店。こちらも解体されていた現在はありません。場所は鎮西橋から直ぐ近くで、旧・日本銀行門司支店の向かい側にあたります。

出光商会が満州に進出した翌年には大阪商船ビルが新築落成します。1階には待合室と税関の事務所があったので佐三たち出光商会の社員達も利用したことでしょう。門司税関1号上屋(大連航路上屋)が完成したのは1929年(昭和4年)です。

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こういったビルは夜景の方が趣があって良いです。

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出光佐三ゆかりの地で忘れてはいけないのは甲宗八幡宮です。信心深かった佐三にとって神社は特別な存在だったのだと思います。故郷の宗像大社の復興にも多額の資産を投じ、生涯にわたって宗像の発展を支え続けてきました。そんな宗像大社には出光佐三の痕跡は残されてないのだそうです。「決して自分の名を出すな」と言った日田重太郎にも通じる思いがあったのでしょう。ですが、甲宗八幡宮の石柱には出光佐三の名前がしっかりと刻まれています。

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また、正面の鳥居は1973年(昭和48年)に出光佐三氏が奉納したもので、鳥居の額束に書かれた「甲宗八幡宮」の文字は出光佐三自らが書いたものです。

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出光佐三は、芸能・文化・芸術においても造詣が深く、多くの美術工芸品を収集しています。その一部は門司港レトロに作られた出光美術館に展示されています。また、1958年(昭和33年)に落成した門司文化会館の建設にも多大な貢献をしたそうです。

故郷・宗像においては宗像大社の復興、大学の誘致なども手懸けています。2017年に宗像大社の沖ノ島と関連遺跡群が世界遺産に登録されましたが、出光佐三と兄弟らによる復興・遺跡調査などがなかったら世界遺産登録は成しえなかったのかもしれません。

出光佐三は、門司港で創業して花開いたけれど、心はいつも宗像にあったのだと思います。会社としては門司を出て行き、現在、門司港に残されているものは出光美術館くらいでしょうか。それだけでも有り難いことですけどね。

出光興産と門司との関係はまだ続いています。出光興産は新門司の埋め立て地に広大な門司油槽所を持っていました。2013年、その遊休地に出光興産初のメガソーラー「門司発電所」が建設されたのです。「最初は門司から・・」そんな思いを勝手に感じています。また、すぐ隣には新出光「新門司ソーラーパーク」も建設されています(2014年)。栄華を極めた時期に門司港で起業した大企業は他にもあります。ですが、そのほとんどは門司港から居なくなりました。そんな中、出光は今なお、門司を支えてくれてるのだなぁと感じる次第です。


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