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2020/11/06

【門司港散策】門司港レトロは夜に輝く、これを見ずに帰るのはもったいない

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陽が落ちるのが早くなり、夜景を見るには最高の季節になってきました。門司港に住んでいれば毎週でも三脚持って散策したいところですが。。。

これまでに撮った夜の写真を一部紹介します。冒頭写真は言うまでも無く門司港のシンボル・門司港駅です。ライティングは二種類あって、青い門司港駅バージョンもありますが、レトロの町・門司港には茶系の方が似合ってると思います。

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門司港のもう一つのシンボルは関門橋です。1973年(昭和48年)に開通しました。もう50年近くも前のことになり、もうすっかり門司港の名所になっています。関門橋の下をくぐる船の往来を昼間に見るのも圧巻ですが、夜になるとまた別の顔を見せてくれます。岸壁の石造りのベンチに座って眺めていると、美しい景色に時の経つのを忘れてしまいそうです。

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門司港レトロとして整備されたエリアの目玉は旧・門司税関です。税関としての役目を終えた後は民間に払い下げられて倉庫として使われ残念な姿をしていたのですが、1995年の門司港レトロオープンで復活しました。

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そして、少し遅れて開業したのがプレミアホテル門司港(元・門司港ホテル)。船をイメージした独特のデザインは門司港の景色にはまります。

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昼間は観光客で賑わう海峡プラザは1999年、門司港レトロ展望台と同時期に開業しました。展望台から眺める関門海峡は美しいし、門司港の昔を知る者からすると、門司港の町並みを全て見渡せるので必見のです。

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プレミアホテル門司港のすぐ前には、国の登録有形文化財にも登録されている旧・大阪商船ビル(築1917年、大正6年)があります。アーチ型の窓やヨーロッパ風の塔屋が特徴的で、門司港駅とならんで大正ロマンを感じさせる象徴的な建造物です。

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そして最後は和布刈展望台から見た門司港の夜景です。ここからは関門橋を通る車や対岸の下関も綺麗に見ることが出来ます。

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旅の締めくくりに夜景をみる・・と言うのはアリだと思います。😊


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2020/10/28

【門司港散策】有楽街 - 門司港に生まれ門司港で刺殺された伝説のヤクザの大親分・大長健一ゆかりの場所

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門司港が石炭積み出し港として栄え絶頂期を迎えてた大正時代末期1923年(大正12年)に大長健一は生まれました。父親は門司港の沖仲仕の小頭、母親は兄弟に博徒を持つ家庭に育ったこともあり、大長健一も子供の頃から番長をはるような荒々しい性格だったそうです。同い年で生涯の友となる宮崎斉蔵とは小学校の頃に決闘した間柄で、その後二人して数々の抗争事件を起こし、その名は全国に知られ恐れられることになりました。大長健一は「凶健」と呼ばれ、宮崎斉蔵は「関門の虎」と呼ばれたそうです。

大長健一についてのエピソードは『<兇健>と呼ばれた男』(本堂淳一郎、幻冬舎)に詳しく記載されています。

ヤクザを美化する気持ちは毛頭ありませんが、繁栄する門司港には荒々しい港湾労働者や炭鉱出身労働者も数多く、夜の町を平定するには用心棒的組織のニーズがあったのは間違いありません。門司港は港として中国や朝鮮との繋がりも深く、戦後の混乱期には横暴な振る舞いをする外国人を押さえ込む為に警察だけでは手に負えず、大長健一を頭とする愚連隊も一役をかったとのことです。

<兇健>と呼ばれた男』を読むと、大長健一は現在の暴力団のイメージとは大きく異なるように思えます。大親分と呼ばれながらも、大きな組織を作って動いていたというより、大長健一自らが先頭に立ち一匹狼のように行動してたようです。愛用の鎧通しで少なくとも14人以上を殺害し、生涯負けを知らず誰からも刺されたことがなかった大長ですが、1970年(昭和45年)行きつけのキャバレー月世界で宮崎斉蔵と二人して居るときに従兄弟にあたる土谷誠に刺され、路上に倒れているところを通行人に発見されて病院に搬送されたものの亡くなりました。享年47才、妻君子と飲み屋を開こうとしていた矢先のことだったようです。

<兇健>と呼ばれた男』(本堂淳一郎、幻冬舎)には実在した飲食店や地名がそのまま記載されています。その一つが栄町銀天街と仲町通りを繋ぐ小路「有楽街」にある「はなのつゆ」と「ゆり」です。大長健一の死後50年も経っていますが、今年撮った写真にも店の名前を確認することが出来ます。

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仲通り側から昼間に撮った写真がこちら。「スタンドバー ゆり」の看板が見えます。その右手奥が「はなのゆつ」です。

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コロナの影響もあり、現在も営業中かどうかは確認できていません。有楽街入口の案内板には「はなのつゆ」は示されていました。

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当時の有楽街はどんなだったか、1970年のゼンリン住宅地図から再現してみました。

門司港有楽街 1970
この中で、現在も営業中なのは橙色で記した店のみです。余談ですが、山田屋さんは門司港名物・焼きカレー発祥の店と言われています。また、スタンドバー8番館でバーテンをされてた方が、現在は有楽街内の「スナック館」のマスターです。御年90才近くになりますが現役です。「館」の名前は「8番館」から来ているとのことです。コロナ渦でも営業されていました。

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萬年亀さんは営業中ですが、主力は門司港駅前の旧門司三井倶楽部内のレストランに移っています。

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さて、大長健一の話に戻りますが、彼が若い頃から行きつけだった店「みなと食道」は有楽街から仲通り方面に出て、右に約100mほどいった新町通りの角にありました。現在は近藤ビルになっていますが「和洋彩香みなと」があります。1970年の住宅地図では「みなと食道、近藤」とありますので、おそらく当時の経営者がビルに建て替えたものだと思います。

著書によると、大長健一は「みなと食堂」の特製オムレツが好物だったようです。そして、「はなのつゆ」に移動してフグとエビフライを食べ、直ぐ前の「スナック ゆり」で飲むのが定番だったようです。更に、有楽街から仲町通りを約100mほど左に行った桜町通り付近にあったキャバレー別世界にも度々足を運んでいたようです。土谷誠に刺されたその夜も、この定番コースを辿っていたとのことです。

大長健一ともなると、夜の町を飲み歩くときには若い衆を何人も連れていたはずです。彼らは親分の警護も兼ねていたわけで、有楽街のように両方の出口が通りに面した小路の店は警護の上でも都合が良かったのではないでしょうか。通りに面した店だと敵に踏み込まれればひとたまりもありませんが、突抜の小路ならその両方の入口で見張っておけば難を逃れられることもできます。門司港の繁華街で小路になっているのは、他には栄町銀天街の桟橋通側近くの栄小路くらいしかないので、有楽街は地理的にも都合が良かったのではないでしょうか。

大長健一は、キャバレー月世界で宮崎斉蔵と二人して居るときに刺されたわけですが、普段は若い衆も一緒だったようです。刺されてその場で騒ぎになっていれば、直ぐに病院に運ばれて一命を取り留めたかもしれません。土谷誠は大長の従兄弟にあたるので事を大きくしたくなかったのでしょうし、大長は身内だということで油断もあったのでしょう。土谷誠にすれば身内にしかわからない積年の恨みがあったのかもしれません。

著書には、大長健一が宮崎斉蔵を担いで通りに出て、その先の浅生外科に向かったとあります。大長はその途中で倒れ、宮崎斉蔵は一人でなんとか浅生外科まで到達することができて助かりました。血まみれの大長は通行人に発見されて長崎病院に運ばれましたが息絶えたとのことです。

1960年代前半に撮影された衛星写真(国土地理院)に店の位置をプロットしてみました。

門司港 1960年代前半

大長健一が倒れていたのは桜町通りと3号線の交差点付近なので、中央市場の近く、1970年当時だと出光興産門司支店の大きなガソリンスタンドがあった場所(写真にはまだありません)だと思います。著書では浅生外科と書かれていますが、ゼンリンの住宅地図では「浅尾外科」となっています。現在は既に無く、皮肉なことに、その場所には葬儀屋があります。大長が運ばれた長崎外科はそこから数百メートル離れた丸山にありましたが、現在はありません。

※ この衛星写真はいつ撮られたものなのか?
出光興産門司支店のビルが建設されたのは1963年頃で、その場所はまだ更地にもなっていないので、この写真は1961〜1962年に撮られたものだと推測できます。

1970年(昭和45年)大長健一は刺されて亡くなりましたが、実は随分前から肺結核を患っていて余命1年から1年半位だったそうです。一命を取り留めた宮崎斉蔵は20年後の1990年まで生き、遺骨の一部は関門海峡に散骨されたそうです。

門司港の栄華と共に生き、そして1960年代頃から顕著となった門司港の衰退期の始まりに亡くなった大長健一。門司港の歴史を知る上で避けては通れない人物なのではないでしょうか。

1970年、私は門司港に住んでいました。身近な場所で起こったヤクザの抗争、そして親分の死がニュースになったのをかすかに覚えています。もちろん、当時は単に怖い・・とだけした感じなかったのだと思いますが、彼の生涯を知ると、良くも悪くもほんとに凄い人物だったのだと改めて思い知らされました。

大長健一が生まれたのは当時の常磐町(現在の老松町)で、衛星写真だと中央市場の北側から老松公園の文字が書かれている付近になります。元々闇市があった場所なので治安は必ずしも良かったとは言えません。現在はその痕跡すら残っていませんが。。。戦後に暮らしたのは畑田の戦災住宅です。大長という名字は珍しいので、ゼンリン地図でも場所がわかりました。

1970年代の地図には大長が暮らしたと思われる長屋の記載がありましたが、1982年頃に撮られた空撮写真では、その場所は既に駐車場になっています。現在、写真中の早鞆中学校は既に無く(清見の元・北高等学校があった場所に移転)、港中学校は港ヶ丘小学校になっています。

門司港空撮 1982ca

写真中の矢印部分が大長とその関係者が居た戦災住宅跡地(現在も駐車場)です。その直ぐ横には出光興産の青雲閣(現在も出光興産の所有ですが更地)が写っています。

早鞆中学校と港中学校は丘を挟んで隣り合わせです。しかも、通学路は途中まで同じなので顔を合わせる機会も多く、時折、両校の番長らがいざこざを起こしていました。1970年代頃まで両校の間にある丘が“決闘”の場所になることもあって、教師達が慌てていた姿を見たことがあります。

今の門司港は至って平和で、子供の数も全盛期の数分の1に減り、老人はそのまま残るので超高齢社会になっているのは以前記事にしたとおりです。


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2020/10/16

【門司港散策】浜町アート通りのシャッター絵画街も解体が進む

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浜町・野だやさんのシャッター画。かつて門司港にあったロープウェイが描かれています。

門司港レトロには浜町アート通りと名付けられた通りがあります。場所は鎮西橋公園から北側に延びる通りで、その一帯にはシャッターに昔の門司港を描いた建物があります。以前は元浜町通りと呼ばれていて、港湾関係の会社や倉庫、店が軒を連ねていた場所です。門司港の港としての機能が衰退すると共に、浜町一帯も駐車場化しつつあり大変残念です。

門司港レトロ地区からは線路を挟んで直ぐ隣に位置しますが、観光客が訪れるのは希です。地域の活性化を目指して、2006年頃からシャッター絵画プロジェクトが始まったと言われていますが、建物が解体されてしまえばシャッターも無くなってしまうのです。しかも、会社が営業中はシャッターが開いているので、せっかく描かれた絵画を目にすることは難しい。祝祭日くらいしかシャッター絵画にお目にかかれないのです。

この場所は以前から気になっていました。ですが、私が門司港を訪問するのは平日が多くて、シャッターに描かれた絵を見ることはほとんどありませんでした。今回の門司港訪問は久しぶりに週末をまたいでたので浜町に行ってみました。一番のお目当ては鎮西橋公園前のマシン商会さんの倉庫に描かれた関門連絡船の絵画・・・だったのですが。

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倉庫が・・・無くなってる !!
この写真は Google Street View に残っていた 2019年7月に撮影されたものです。二つのビルの間にあった倉庫が無くなっていました。そこにあったシャッター画も Google Street View に残っていたので転載しておきます。綺麗に描かれているので、どこかにシャッターが残っていればいいのですが。。

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鎮西橋の交差点にあったCLCタカハシビル(上の写真の右側で空き地になっている場所)が2018年に解体されたのは記憶にありました。2006年、シャッタープロジェクトが始まった当初から立派な絵が描かれていた場所です。大正期にあった三井物産門司支店、門司郵便局、日本商業銀行門司支店、そして三井銀行門司支店が3枚のシャッターに連続した絵のように描かれていたらしいです。残念ながら、私は全てを同時に見たことはありません。こちらも Google Street View に運良く残っていた写真を貼っておきます。

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浜町にはわかってるだけで次のマップに示す場所にシャッター画がありました。建物自体が無くなっているものは黒印でしめしています。赤印は現存しています。

 
門司港レトロ側から歩いてくると最初に目に付くのはマシン商会さんのシャッター画です。平日営業中はシャッターは開いているので残念ながら見ることは出来ません。

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門司高校・美術部の生徒による作品ですが、この門司高校は既にありません。門司学園高校と名前を変えて新門司の猿喰地区に移設されました。

その隣(地図の上側/北側)にはタイヨージョイントさんのビルがあり、かつての大連航路に就航してた船の様子と門司港駅が描かれています。この船の絵は元々倉庫のシャッターに描かれていたもので、おそらくシャッターごと壁面に移設展示されています。横縞はシャッターの後なのです。

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ビルの反対側(正面入口)のシャッターにも絵が描かれていますが、営業中だったのでシャッターが開いており見ることは出来ませんでした。

解体されてしまったマシン商会さんの倉庫の隣は久野商会さんで、そのシャッターには鎮西橋と船溜まりの様子が描かれています。

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太田商会さんのシャッターには、地元門司港在住の画家・穴吹哲二郎氏による関門海峡の夕陽と海峡をバックにした旧大阪商船が描かれています。(浜町の「シャッター絵画通り」その10

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栄町Cafe レトロ横丁さんの Web より転載

少し北側に200mほど歩くと、久野商会さんの倉庫(少し離れた北側)のドア絵が、そして更に北側には鍋島商店さんのドア絵もまだ見ることが出来ます。。

プロジェクトから15年近く経つので建物自体がなくなるのも致し方ありません。せっかく描いた門司港の絵なので、どこかでまとめて保存してくれると有り難いのですが、まぁ維持するのも大変でしょうけど。次回、また週末に訪問することがあれば足を運んでみたいと思います。


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2020/10/08

【門司港散策】門司印刷さんの建屋が解体されました

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[2019年5月撮影]

門司印刷(株)Web によると、門司印刷の前身にあたる江島日進堂が門司港に進出したのは1897年(明治30年)頃だそうです。門司港の築港と鉄道による好景気にあやかり、明治時代の後半から数多くの企業が門司港に進出しました。江島日進堂はその中でも古参株になるのでしょう。当時の門司港は、門司村(1887年、明治20年)から門司町(1894年、明治27年)、そして門司市(1899年、明治32年)へと、わずか12年で村から市へ一気に発展した時期です。

冒頭写真の建屋はいつ建造されたのか定かではありませんが、おそらく 1953年(昭和28年)に株式会社に組織変更した頃に建てられたのではないでしょうか。とすると、既に65年以上も前の建物になります。入口シャッターには昔の門司港を忍ばせる建物の絵が描かれていて、つい先日、記事にしたばかりです。


現在の様子は次の写真です。まだ重機入って作業をしていたので、9月頃に解体が始まったのではないでしょうか。

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この付近をレトロ展望台から眺めてみると、周囲は駐車場とマンションだらけです。門司印刷前に広がる駐車場には元労災病院(1989年、九州労災病院門司メディカルセンターとして浜町に移転)と簡易裁判所、検察庁がありました。

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最近は門司港に行くたびに古い建物がポツポツと無くなっていく様子を目にします。門司港がまだ栄えてた1950〜1960年代(昭和30年代頃)までに建造された建物は、既に築年数60〜70年になるので解体されてしまうのは当然のことかもしれません。新たにビルが建つならまだしも、駐車場に化していくなら何とも残念な気持ちになります。

同じく、8月に記事にしたばかりの錦町・川端通りにあった元あずま湯さんの建物も解体されて更地になっていました。これは別記事に書く予定です。


門司印刷さんは廃業したのでしょうか。ネットで会社の廃業・倒産情報を検索してみましたが見当たりませんでした。門司印刷さんの Web は今年の6月頃にも更新されていて門司港の情報を発信しているので、今後も事業継続されていかれることを祈っています。


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2020/09/09

バンコク・チャイナタウン裏通り - 昔は日本人バックパッカーの聖地 【備忘録】

Twitter でバンコクにあった知る人ぞ知る元・ジュライホテルの写真を見ました。1995年10月30日に閉館ですので、もう25年も前からこの姿を留めているわけです。バンコクには廃墟が沢山ありますが、建設途中で資金が尽きたり、廃業後も解体するよりそのままにしておいた方が安上がりなのかもしれません。

GL_ジュライホテル GGL 2019_08

現在のバックパッカーの聖地と言えばバンコク・カオサン通り。ですが、実は歴史はさほど古くありません。かつてバンコクに来るバックパッカーは、フアランポン駅近くのホテル(タイソングリートホテル Thai Song Greet Hotel)に泊まる者が多く、1970年代後半(1977年との記載あり)にホテルが閉館すると、多くの外国人はルンピニ公園南側のラマ4通りから少し入ったところにあるマレーシアホテル周辺に、そして日本人はフアランポン駅からクルンカセム運河を渡ったチャイナタウンに移動したそうです。(次の写真は1973年に撮影されたもの)

1973-12 Bangkok Thai Song Greet Hotel

私がタイに行き始めたのは1990年代後半に入ってからなので昔のことは全く知りません。当時はアジア旅行ブームだったのでしょうか、谷恒生、下川裕治、クーロン黒沢、蔵前仁一さんらの単行本が数多く出版されていて、バンコクに「沈没」という言葉を始めて知りました。酒、女、そして薬などにハマって怠惰な生活に明け暮れるって感じでしょうか。怠惰という表現は良くないですね、多分、ご本人達にとっては浮世離れした楽園のような生活だったのかもしれません。

タイ・デビューが比較的に遅く、表街道しか歩いて来られなかった私は、「沈没」的生活とはほど遠く、本の中の生活に理由無く憧れたものです。もしも学生時代にタイを知っていたら、多分、私の人生は変わっていたと思います。🤣

当時の様子を垣間見ることが出来る Web を検索してみました。

 当時のジュライホテルの様子が詳細にに綴られています。
> 1970年代日本人旅行者の大部分がバンコックでは、中央駅近くのタイソングリートホテルに泊まっていた。そこが閉鎖した後、ヤワラー界隈の楽宮旅社に移り大いに賑わったということです。
80年代日本バブル期急激に増えだした日本人旅行者を楽宮旅社だけでは、賄いきれず、また時代の流れによって、廃れていった楽宮旅社の受け皿でもあるかのように、ジュライホテルに旅人が流れて来たのです。最盛期80年代後半から92~93頃常時、ジュライホテルに約80人、楽宮旅社に約20人。

バンコク「楽宮大旅社」旅人たちの夢の跡(2007/05)楽宮ホテルは2005年6月末で閉鎖
楽宮ホテル 2007_05

ジュライホテル 2005_07

楽宮ホテル 2005_09

楽宮ホテル 2009_03

楽宮ホテル 2006_12

・ジュライ・ホテルと北京飯店(2012/07)写真中央は台北大旅社
台北大旅社 2012_07

 2015年5月頃閉館、現在は改装して W22 by Burasari として営業中
台北大旅社 2015_05


長年にわたって日本人バックパッカーを支えてきて、2005年頃に閉館した楽宮ホテル(楽宮大旅社)の今は・・・建物はもちろん残っており、Google Street View で見ると入り口看板後もうっすらと確認できます。

GL_楽宮ホテル跡 GGL 2019_08

また、Google Street View の2011年撮影写真を見ると、楽宮大旅社の入り口付近にあった北京飯店の看板も確認できます。

最後に、バンコク・バックパッカーの原点とも言えるタイソングリートホテルの住所(247 Rama IV)を Google Map で調べてみると、次の水色のビルがその場所に相当しました。

GL_タイソングリートホテル跡 GGL 2019_08

2006年に撮影された写真を見るとセブンイレブンは現在の左側のビル1階にあったようで、元タイソングリートホテルのビルは分割されて現在のセブンイレブンと水色のビルになっているのだと思います。これらのビルは既に築50年をゆうに超えているはずなので、フアランポン駅周辺の再開発が進めば無くなってしまうのでしょう。

バックパッカーという言葉に憧れすら感じてタイに行き続けてきた私ですが、社会に縛られて一歩が踏み出せなかった過去だけは後悔してやみません。😅


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