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2019/06/27

【門司港散策】門司港は既に 超・超・超高齢社会 - ちょっと真面目な話 -

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門司港を散策しているとお年寄りの姿をよく目にします。門司港レトロで少しだけ賑わう門司港駅周辺では気になりませんが、少し山側の元・繁華街エリアに入ると、町を歩く現地の人達はお年寄りが圧倒的に多いのです。現地の人が冗談半分で言った言葉が耳に残っています。

「二足歩行できる人がどんどん少なくなっていく・・・」

65歳以上の人口が、全人口に対して7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と呼ばれるそうです。内閣府によると、日本の現在の高齢化率(総人口に占める 65歳以上の人口)は 27.7% なので、日本は「超高齢社会」と言うことになります。将来推計では、40年後の2060年頃に高齢化率 38% を越えるとされています。

都市部に人口が集中し、地方は過疎化が進んでいます。北九州市はかつて100万人以上の人口を抱える大都会だったはずですが、過疎化の波をもろに受けている感じがします。1963年(昭和38年)に5市が対等合併して北九州市になりました。人口動態を見ると、皮肉なことに、その頃から成長が止まり衰退が始まったと言っても良いのかもしれません。(次のグラフはWikipediaから拝借した物です)
オレンジ色は5市合併前の人口推移で、赤色が5市合併後。ブルーは福岡市の人口推移です。

北九州市人口推移

合併当時の人口は約103万人、最盛期は107万人、そして現在は95万人にまで減少しています。北九州市全体で均一に減少しているわけでなくて、特に過疎化が進んでいるのは門司区と戸畑区です。門司区の場合、合併当時約16万人だった人口が現在では10万人弱しかいません。戸畑区も5万人以上減少しています。都市部に転出していくのは比較的若い年齢層の人が多いので、この人口減少は必然的に高齢化を引き起こします。

高齢化率に関して北九州市が作成した資料がありました(平成22年)。それによると、20年後には市のほぼ全域で高齢化が進み、特に門司港エリアや若松港湾部、八幡東区工業地の人口減少と高齢化が著しいと予測されています。

北九州高齢化率H52
さて、現在の門司港について見てみると、北九州市が公開している町別・年齢別・人口統計から、門司区全体の高齢化率は 36.5%(人口 98,335) 、門司港地区だけを見ると 42%(人口 19,018) にも達していることがわかりました。2.4人に一人が65歳以上の高齢者なのです。年齢構成をグラフにすると次の通り。言葉もありません。

門司港人口構成

特に高齢化率が高い町は、上本町、花月園、庄司町、元清瀧、丸山吉野町で、50%を越えています。これらの町は内陸部の比較的古い町なので過疎化とともに高齢化率が跳ね上がっていったのでしょう。門司港地区の中で国の平均値27.7歳を下回る町は西海岸だけで、人口はわずか280人程なので門司港地区の2%に相当するにすぎません。人口構成で85歳以上の高齢者が占める割合が一番多い町は、春日町、上本町、丸山吉野町です。

門司港地区では小中学校の統廃合も進んでいて、昔は6, 7校の小学校があったはずですが、今は2, 3校しかなく、各校の生徒数は半減以下だと聞きました。私の母校も既に跡形もありません。

一番活動的な10代から20代の人口が少ないので、街中を歩いていて「若者」を見ることがほとんどありません。60代70代位で元気な人だけが買い物に出かけてる感じでしょうか。😅

門司港の現状は、観光地化された門司港駅周辺を除いて悲惨な状況なのです。門司港出生まれ育った者にとっては悲しい現実ですが、私も門司を離れた一人なので心境は複雑です。観光客として時々訪問すると、懐かしさと共に新しい風を感じることがあります。過疎化と高齢化は門司港だけのことではありません。ただ寂れていくだけでなく、今の門司港の特色を活かして新たな町に生まれ変わっていって欲しいものです。

門司港はやはり関門海峡と港の町です。赤煉瓦の大正レトロも良いけど、関門海峡の雄大な景色を眺めたり、異国情緒溢れる町になれば魅力的です。

2020年完成予定で、元・新浜11, 12号上屋跡地に、温浴を含む複合施設が建設されることになっています。場所はプレミアホテル門司港の目の前、門司港地ビール工房の直ぐ横です。古い倉庫は既に解体されて更地になっています。

門司港温泉施設

予定地からは関門海峡、そして関門橋が一望できます。海峡プラザとあわせて、門司港観光の中核となることが期待されています。ですが、実は完成するまで油断はできません。と言うのも、以前、和布刈公園にあった「めかり山荘」の跡地に宿泊施設が新築される予定で業者まで決まっていましたが実現しなかったからです。

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この写真は建設予定地(門司港地ビール工房の直ぐ横)をプレミアホテル門司港前の岸壁から撮ったものです。立地条件は素晴らしくいいのですが、どうなることやら。更地になった後、いまだに工事が始まってないので地元の人は心配していました(2019年5月)。

街中には一風変わったカフェもあります。奇抜な色の店構えと、中央アジアの店に迷い込んでしまったかのような内装。調度品のほとんどがグリシェンさん(日本人女性ですよ 😁)のコレクションだというから驚きです。マスターは門司港出身なので、門司港の歴史など昔話をしながら、そして日本酒を飲みながら楽しい時間を過ごさせて頂きました。「なぜココに!」感はハンパありませんが、門司港の新しい楽しみ方かもしれません。

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グリシェンカフェ」中央アジアの博物館のような内装のカフェ

門司港の地元の人が行くエリアでは、食材が売り切れたら閉店する店が良くあります。身の丈にあった商売というか、決めた量を売り切ると時間が早くても閉店する・・・セコセコ・ガツガツと商売している雰囲気ではありません。そういうのが、もしかしたら、超高齢社会での商売術なのかもしれない・・・と、ふと思いました。


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2019/06/24

【門司港散策】門司港は昔「楠原村」だった? - 門司の歴史を調べてみた -

門司港の歴史を色々と調べていると、必ず出てくるのが「楠原村」です。かつて「門司港は楠原村と呼ばれていた」という簡単な説明だけで、それがどこだったのか、いつ頃から「楠原」と言う名前が使われなくなったのかが疑問でした。

1967年に住居表示の変更があったとき、それまで使われていた馴染みのある町名の多くが無くなりました。以前は「通りの名前」を基準にした住居表示だったのが、エリア基準の住居表示に変わりました。「通りの名前」基準の住居表示の方が直感的で分かりやすいんですけどね。「●●町●●丁目、●●番、●●号」なんて言われても、大体の場所はわかっても辿り着くのは大変です。海外のように、「●●通り●●番」の方がシンプルだし、特に旅行者には分かりやすいと思います。どちらも一長一短あるので、どちらが良いとは一概に言えませんが。

江戸時代、伊能忠敬が日本全土を旅して測量した地図を元にした1874年(明治7年)の門司区の地図がこれです。ここには現在の門司港中心地辺りに「楠原村」と表示されていますが、直ぐ横には「門司村」とあります。

1874 企救郡 SS

1920年(明治23年)の地図もありました。国会図書館のデジタルライブラリーにある「門司市史」から取りましたが、イライラするほどのピンボケで文字は判読不能。他の資料と付き合わせて文字を復元したものが次です。

1890 門司港の地図 S

この時期に門司の築港がはじまるので、その直前の様子を示しています。ここでは既に「楠原村」の表記はありません。興味深いのは、本村川と栄川です。本村川は元・本川通りに走っていた川で、栄川は川端通りにあたります。暗渠(あんきょ)になっているのかどうかはわかりませんが、現在は川の痕跡は全くありません。(昔は川を挟んで東川端通り、西川端通りと呼ばれていました)それにしても、広大な塩田が広がり田んぼしかなかったのが良くわかります。

1884年(明治17年)当時の各村の人口統計が残っています。それによると、楠原村(1,060人)、門司村(373人)、田野浦村(985人)となっていて、門司村は一番弱小だったわけです。ちなみに、最も人口が多かったのは柄杓田の1,176人です。当時は農作中心だったため、農地の広さと人口が比例していたのでしょう、関門海峡側よりも周防灘側の方に多くの人が住んでいたようです。(いつ頃からか、周防灘側の門司を “裏門司” と呼んでいましたが、現在は港湾整備が進み “新門司” と呼ばれています)

昔の地名(村名)を Google Maps に入れた地図がこちら。

門司の旧村名

この地図を見て・・・・ 「楠原」だけが現在の地名に残ってないのです。

子供の頃、漠然とした疑問がありました。「旧門司」はあるのに何故「門司」は無いのか。なぜ「旧門司」と呼ばれているのか。(当時はまだ「新門司」はありませんでした。また「旧門司」は現在も町名として残っています) 「旧門司」と呼ばれているエリアこそが元々の 門司 だったのです。和布刈神社のあたりから甲宗八幡宮までのエリアです。九州最北端に位置し、文字ヶ関(門司ヶ関とも書かれる)や古城山があるので江戸時代より前から要所だったのでしょう。

楠原村が消えた時期ははっきりしています。門司市史には、1887年(明治20年)に門司村と楠原村が合併して「門司村」になったとあります。同じ年、田野浦村と田ノ浦町(新開)が合併して「田野浦村」も誕生しています。また、大里エリアでは、大里村・東原町村・新町村・二十町村・柳村・馬寄村が合併して「柳ヶ浦村」ができました。楠原村の方が門司村よりも人口が多かったのに、由緒ある「門司」という名には勝てずあっさりと村名を捨ててしまったのです。

その2年後の 1889年、町村制施行に伴い、門司村、田野浦村、小森江村が合併して企救郡文字ヶ関村が誕生しました。築港が始まり勢いを増しつつあった 門司村 ですが、江戸時代から栄えた 田野浦村の勢力もまだ強く、猛抗議を受けて 「門司村」とはならずに妥協案として「文字ヶ関村」になったと言われています。同じ年、大積村・白野江村・黒川村・喜多久村・柄杓田村が合併して企救郡東郷村に、猿喰村・畑村・今津村・吉志村・恒見村・伊川村が合併して企救郡松ヶ江村に、柳ヶ浦村はそのまま企救郡柳ヶ浦村になりました。これで、現在の北九州市門司区の原型がこの四つのでできあがりました。

楠原村の話に戻ります。
楠原村の名前は、川沿いの野原に群生した楠木に由来すると言われています。門司港の地形を見ると、錦町から栄町にかけては扇状に広がる扇状地なのではないかと思います。その中心に流れていたのが栄川で、場所は川端通りにあたります。とすると、川端通り沿いのどこかに楠木があった。。。

こんな時、昔の町名(通り名)は素晴らしい。子供の頃は考えたことも無かったのですが、確かに今の錦町に楠町通りというのがあったのを思い出しました。今はどの地図を見ても楠町通りの名前は見当たりません。1928年(昭和3年)の地図には楠町通りと川が示されています。

1928 門司市街地_SM

川と楠町通りが交差する辺り、今はもう何の痕跡もありません。こちらの写真は現在の元・楠町通りです。この空き地には以前、梅の湯さんがありました。

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それにしても何故、門司のルーツとも言える楠原村の名前を消してしまったのでしょう。痕跡はないものでしょうか。

以前、区役所の裏手の清瀧に大きな楠木があったと聞いたことがあります。現在もあるのかどうか未確認です。レトロ展望台から錦町方面を撮った写真を見ると、道が分岐する辺りに大きな木があるのを見つけました(写真中央上部、道を遮るように立っている木)。Google Street View で見てみると案内掲示などは何も無さそうです。

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大きな木だったようで、定かではありませんが、どこかに移されたという話も聞いたことがあります。次回訪問時は「楠原」の痕跡を探しに行ってみよう考えています。

楠原の名前を残す物として、北九州市指定無形民俗文化財「楠原踊」があります。毎年、甲宗八幡宮の秋祭りで踊られていますが、元々は楠原村の雨乞い踊りだったそうです。


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2019/06/20

【門司港散策】旧大連航路上屋(門司税関1号上屋)

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横浜、神戸とともに日本有数の港として賑わってた門司港。1929年(昭和4年)に大陸間航路の拠点施設として建設されたのが「門司税関1号上屋」です。2階建ての旅客ターミナル部分と平屋建ての倉庫からなります。当時は、大連や欧州を結ぶ約40航路(約180便/月)が就航する国際旅客ターミナルでした。中でも大連航路は便数が一番多かったことから、いつしか「大連航路上屋」と呼ばれるようになったそうです。

第二次世界大戦、そしてその後の産業構造の変化は門司港の運命を変えました。1950年(昭和25年)朝鮮戦争が勃発したときに「大連航路上屋」はアメリカ軍により接収され、1972年(昭和47年)までの22年間もの間、アメリカ軍の所有となっていたのです。その間は港湾施設として自由に使うことができず、門司港の港としての機能は制限され海外貿易にも支障がありました。返還後は門司税関の仮庁舎や公共上屋(倉庫)として2008年(平成20年)まで利用されていました。

当時の門司港西海岸の岸壁は「大連航路上屋」の直ぐ目の前です。それを示すのが道路脇に残る係船柱です。当時のまま、同じ場所に残されています。

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こちらの写真は現地の案内板に載っていた写真です。建物の直ぐ前は岸壁で、係船柱も見られます。

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建物の設計は国会議事堂や横浜税関などを手がけた著名な官庁建築家・大熊喜邦が担当し、幾何学模様を取り入れたアール・デコのデザインを特徴としています。正面ファサードにはチケット売り場と思われるブースが設けられています。

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 内部に入ってすぐ右側には大階段があり、出国検査を済ませた旅客は2階へ上がれる構造です。アール・デコ風の階段親柱や採光上の工夫が航海に出る前の期待感を盛り上げていたことでしょう。

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2階に上がると開放的な長い廊下があります。屋内には休憩所もあって、のんびりするには最高の場所です。ここから眺める門司港・関門橋の景色は絵になります。

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旧大連航路上屋の整備事業が始まったのは2006年(平成18年)からで、2013年7月にオープンしました。当時をしのぶ空間構成や意匠を残し、上屋や門司港にまつわる貴重な資料が展示されています。

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旧大連航路上屋前の岸壁埋め立て工事が着工したのは1984年(昭和59年)です。1989年(平成元年)には門司港開港100年を迎え、わたせせいぞうさん(高校まで小倉在住)によるイラストが上屋壁面に描かれました。この写真は2009年に撮影したものです。(現在はありません)

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埋め立て地には2003年4月開館の「関門海峡ミュージアム(海峡ドラマシップ)」があります。旧大連航路上屋前という場所からして、大陸航路の大型船をイメージして作られたのは明らかです。2018年4月より改修工事のため閉館していますが、2019年9月21日にリニューアル・オープンする予定です。関門海峡の歴史を紹介する展示など、再開が楽しみです。

2009年に上屋全体を撮った写真がありました。税関に近い方から1号2号3号上屋と続きます。旧大連航路上屋として整備されているのは1号上屋です。

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こちらの写真は2019年にレトロ展望台より撮影したものです。税関、旧大連航路上屋、海峡ドラマシップなどの位置関係が良くわかります。この日は良く晴れていたので、小倉の町並みだけでなく遠く皿倉山まで見えています。

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この場所は、石炭貿易の最盛期に積み出し埠頭として使われていた場所です。1904年(明治37年)に若松港が開港してから石炭の輸出額は減少していき、新たな産業に関わる物資にシフトしていきました。「門司税関100年の歴史(2009年)」には次のような記載があります。

大正 8 年(1919)から始まった門司港の西海岸修築工事は、昭和 6 年(1931)9 月によう やく完了した。これにより1万トン級の貨物船 7 隻が係留できる西海岸外貿埠頭が完成し、 昭和 7 年(1932)には大連航路の定期船が就航した。また、陸上施設の整備も進み、上屋、 鉄道、起重機などの設備を備えた近代的な貿易港となった(門司港修築第 1 期工事)。


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2019/06/17

【門司港散策】清滝の路地を歩く

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門司港には海も山もあります。平野部の多くは明治期以降に埋め立てられた場所と行っても過言ではありません。社交場として賑わった清滝も山の麓で、有名な「三宜楼」も少し小高い場所にあります。そんな清滝には車が入れないほどの狭い路地が沢山あります。古い建物が無くなる前に写真に収めておきたい・・・と思っています。今回はその第一弾、初めて宿泊した「むつみ関門荘」近くの路地を朝方に散歩したときの写真です。

むつみ関門荘」は角打ちで有名な「魚住酒店」のすぐ前にあります。50年以上も続く古い旅館で、建物の古さは致し方ないとして、ホテルでは味わえない暖かい雰囲気がいい感じです。清滝の路地巡りをするには、その入口と言っても良い場所です。「むつみ関門荘」の直ぐ前、「魚住酒店」の隣には路地裏の雰囲気を残した趣あるカフェ「片(わずか)」もあります。一見、こじんまりとして入りづらそうですが中は意外と広く、気さくなマスターとの会話も楽しいです。

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写真では小さく見えづらいですが、土日・祭日のみオープンしている路地裏ギャラリー「moji*logi」の案内看板があります。

この路を上った先にあるのが赤煉瓦塀が印象的な古民家です。前の空き地にも民家があったのでしょう、土台のみが残っています。

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写真左手に向かうと山に続く路地があり、何だか良い雰囲気です。次回訪問の際は上まで登ってみるつもりです。そして城のような立派な石垣もあります。

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昔の映画に出てきそうな、こんな煉瓦塀のある小路もあります。

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こちらは2階に渡り廊下があるので、元旅館か料亭だったのでしょう。最盛期、清滝界隈には数十軒の料亭があったと言われています。そのほとんどは既に解体されていますが、まだ探せば古い建物をみつけることができるのではないでしょうか。

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消防車などが入れない狭い路地が続くので火事は大敵です。喫煙、タバコのポイ捨ては絶対にやってはいけません。また、この辺りでも猪が出るらしいので、子育ての時期は要注意です。

路地を歩いているとお地蔵さんにも出会えます。最初の写真は「むつみ関門荘」の入口脇にあったもの、次は「三宜楼」近くの民家の立派な門の前にあったものです。元は料亭だったのか、それとも豪邸なのか、清滝は眺めも良いので高級住宅地でもあったのです。

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清滝の路地は奥が深いです。Google Maps にも細かくは出てないし、もちろん Google Street View にもありません。次回は、古い地図を見ながらゆっくり歩いてみようと思います。


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2019/06/14

【門司散策】門司赤煉瓦プレイス(元・帝国麦酒/サッポロビール 門司工場)

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赤煉瓦の建物には古き良き時代を思わせるような哀愁に満ちた暖かい雰囲気があります。港町ならではと言っても良いでしょう、門司の西海岸沿いには沢山の赤煉瓦倉庫や建物が今も残っています。その一つが「門司赤煉瓦プレイス」です。この建物群は、2000年(平成12年)までサッポロビール九州工場の醸造施設として使用されていた場所で、2005年(平成17年)に門司麦酒煉瓦館が開業し、翌2006年(平成18年)に他の施設も開業しました。2007年(平成19年)に国の登録有形文化財に登録され、2009年(平成21年)には、近代化産業遺産続33(33九州窯業 - 北九州市の鉱滓煉瓦製造関連遺産)に認定されました。

門司の赤煉瓦倉庫や工場の歴史を知る上で、かつて三井、三菱をしのぐ総合商社とも言われた「鈴木商店」を抜きには語ることはできません。鈴木商店は1874年(明治7年)に神戸で開業し、第一次世界大戦後に最盛期(1919〜1920年)を迎えるものの、世界的な大戦後不況のあおりを食らって、その僅か7年後に事業を停止し清算することになりました。

門司との関わりは大変深く、西海岸沿いに次々と工場を建設して「鈴木コンツェルン」を形成していきました。主な工場は次の通りです。

1903年(明治36年)大里精糖所(現・関門精糖)
1911年(明治44年)大里製粉所(現・日本製粉、既に工場・倉庫は解体)
1912年(明治45年)帝国麦酒(現・サッポロビール) ← 赤煉瓦プレイス
1914年(大正3年)大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)
1917年(大正6年)神戸製鋼所(現・神鋼メタルプロダクツ)
1918年(大正7年)日本冶金(現・東邦金属)

鈴木商店に多額の資金を提供しメインバンクになっていた「台湾銀行」は、門司港に支店を置いていました(古い地図には現在の西日本銀行付近に台湾銀行の名前があります)。

門司港が繁栄するなかで鈴木商店も飛躍的に発展し、第一次世界大戦後に終焉に向かったと言っても良いでしょう。門司港の繁栄はもう少し続きましたが、やはり第二次世界大戦を機に衰退に向けて流れが変わっていきました。

赤煉瓦プレイスの建物は主に3つ。一つは1913年(大正2年)に建設された管理棟(現・門司麦酒煉瓦館)です。日本における最初期の鉱滓煉瓦建物で、現存最古の本格的鉱滓煉瓦建築として大変貴重なものです。内部は資料館と売店になっています。

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次は一番大きな建物であるビール醸造棟(築1913年)。2000年まではサッポロビールの醸造所として稼動していました。現在は中に入ることはできないようです。全景は冒頭写真、煉瓦壁が古くてイイ感じです。

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次は倉庫棟(現・赤煉瓦交流館)。赤煉瓦ホールと会議室が入っています。

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醸造棟の奥には組合棟(現・赤煉瓦写真館)があります。

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更に醸造棟の裏側に回ると BRICK HALL があります。小規模な懇親会やイベントに使われるお洒落なホールです。ちなみに、リコーのカメラ GR のファンイベント「GR meet」が7月7日にここで行われます。門司出身の写真家、藤原真也 さんの講演も予定されています。1992年に発表した「少年の港」は門司港を題材にした写真集です。

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最後に、2005年に撮った写真の中に開業前の赤煉瓦プレイスがありました。門司駅で動きだした電車の中から撮ったものですが、当時は駅と赤煉瓦を遮る建物は何もなくて野っ原でした。

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赤煉瓦倉庫・工場としては、元・大里精糖所(大日本精糖、西日本精糖を経て現在は関門精糖)と元・大里酒精製造所(日本酒類醸造、大日本酒類醸造、協和発酵、アサヒ協和酒類製造と経て現在はニッカウヰスキー 門司工場)は現在も稼働中です。けれども、元・大里製粉所(日本製粉と対等合併)は日本製粉の工場集約かにより1997年(平成9年)に工場が廃止され、その後、赤煉瓦建物も解体されました。真っ白な5階建ての製造棟は元・電車通りから遠くに見えていたのを覚えています。


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